このブログでも度々触れていますが。。。
久々にサラで買いたい本が。。。
なんか同じにおいを感じます
「ぼくは猟師になった」は今年ぼくが読んだ本で一番面白かった。
だから気に入った箇所をブログにのっけてみようかな。
(捕鯨禁止にふれ)欧米諸国によるほかの地域や国の文化に対する偏見をもとにした、価値観の押し付けに他なりません。動物を高等、下等と区別し、自分たちが大量に消費する家畜は高等ではないと言い張るご都合主義。「豚は下等な動物だから食べてもよい」ということです。
動物を自分たちの都合のよい形質に無理やり改良して、それを狭い畜舎で飼育し、大量に殺していくことのほうがどれほど野蛮なことなのか。こういう思いは今でも強く持っています。
(東ティモールにNGOで参加した際に)自分には手助けできても、その国を実際に作っていくのはその国の人たち自身であり、独立への道を歩みだした今、不必要に外国人が関わるべきではないということでした。自分たちの国を新しく作ろうとしている東ティモールの人々は生き生きとしていました。それを見た時、やはり
自分の生まれた土地に責任を持ってそこで暮らすべきなんだろうな、という考えが漠然と浮かび、海外放浪への情熱がスーッと冷めていくのを感じました。
まだまだ技術が未熟で売るほど取れないというのも正直なところですが、
中途半端に知らない人に売ってお金に換えるよりは、いろんな友人に食べてもらいたいと思う気持ちが強いのも事実です。
動物の肉を食べるということは、かなりの労力を費やす一大事です。ありきたりな意見ですが、
スーパーでパック詰めの肉が売られているのを当然と思い、その肉にかけられた労力を想像しなくなっている状況はおかしいと思います。誰かが育て、誰かがその命を奪い、解体して肉にしているのです。狩猟は残酷だという人がよくいますが、その動物に思いをはせず、お金だけ払い買って食べることも、僕からしたら残酷だと思います。
(シカの増殖について)よく言われているのは、ニホンオオカミやエゾオオカミなど捕食者の絶滅です。かつてオオカミは、田畑を荒らす動物を退治するといわれ人々に崇められる存在でしたが江戸時代後期から家畜の飼育が大規模化するにつれ、それを襲うオオカミが敵視され始めます。明治以降には欧米型の家畜飼育・牧畜が伝わったことでオオカミに対する価値観も欧米化されます。徹底した駆除が行われるようになり、その数は一気に激減しました、また、輸入された犬のもたらした伝染病が原因とも言われています。
野生動物というだけで、イノシシやシカの肉が「臭い」「硬い」と思われ、敬遠されるのは無意味だと思います。
それぞれの動物の肉には、それぞれの特徴があって味も異なるのが当然です。こういった誤解をなくすには、たくさんの人においしい野生動物の肉を食べてもらうのが一番です。そのためにも、狩猟で獲った肉の処理施設や受け入れ態勢の整備が望まれます。そうやって多くの人がその肉のおいしさに気づき需要が増えれば、猟師も喜んでより多くの獲物を獲るでしょう。その結果増えすぎた野生動物による農業被害なども減り、すべてがうまく回っていくはずです。
狩猟というのは非常に原始的なレベルでの動物との対峙であるがゆえに、自分自身の存在自体が常に問われるという行為であるということです。地球の裏側から輸送された食材がスーパーに並び、食品の偽装が蔓延するこの時代にあって、自分が暮らす土地で、他の動物を捕まえ、殺し、その肉を食べ、自分が生きていく。
そのすべてに関して自分に責任があるということは、とても大変なことであると同時にとてもありがたいことだと思います。逆説的ですが、自分自身でその命を奪うからこそ、その一つ一つの命の大切さもわかるのが猟師だと思います。
猟師をしている時、僕は自分が自然によって生かされていると素直に実感できます。また、日々の雑念などからも開放され、非常にシンプルに生きていけている気がします。
うわああああ
書き込むのにすごく時間かかってもうた。
もう寝ます。